フィールドトリップ 福島第一原子力発電所と大熊町帰還困難区域の視察

本日(2018年7月3日)は、日帰りのフィールドトリップとして、2011年に発生した東日本大地震の後、深刻な事故が発生した東京電力ホールディングス株式会社(TEPCO)の福島第一原子力発電所(1F)および、その周辺自治体である大熊町の帰還困難区域を訪問しました。

今回のフィールドトリップは、 “Real Fukushima”というプログラムにより企画されたツアーに参加することで実現しました(参考 Real Fukushimaのウェブサイト:https://real-fukushima.com/)

学生達と教員は、朝6時(!)に集合し、品川駅へ向かいました。品川駅からは、特急ひたちでいわき駅(福島)まで行き、そこから常磐線に乗り換え、富岡駅に10時頃到着しました。富岡駅で、福島県職員の佐々木さんが迎えてくれました。このフィールドトリップには、Safecast (放射線に関する事実の共有を促進するボランティア団体)の主任研究員であるAzby Brownさんが、ガイド・通訳として、品川から同行してくださいました。(参考 Safecastについて:https://blog.safecast.org/en/ )

富岡駅より、チャーターバスに乗り、まずTEPCOの旧エネルギー館へと向かいました。そこで1Fの歴史、原発のしくみ、事故発生当時の状況やその後の取り組みなどなどについて詳しい説明を受け、併せて見学上の注意事項などの説明を受けました。

TEPCO 旧エネルギー館

東京電力の方による説明と、その説明を通訳するAzby Brownさん 

その後、バスに再度乗り、1Fへ向かいました。途中、地震で大きなガラスが破損した自動車のショールームや遊戯施設などが、廃墟のように残っている様子をみつつ、1Fへ到着しました。

窓ガラスが割れて放置、廃墟化したカーディーラー店舗

1Fの構内の入退域管理施設にて、一時立入許可証を受け取り、厳しいセキュリティチェックを受け、個人線量計を受け取り、1Fの構内における移動バスへ乗り込みました。

私たちは、バスの中から、

1:既設多核種除去設備[既設ALPS]
2:増設多核種除去設備[増設ALPS]
3:1~4号機 外観確認
4:地下水バイパス設備
5:4号機原子炉建屋前
6:陸側凍土遮水壁設備
7:サブドレン設備
8:物揚げ場海側設備
9:6号機非常用ディーゼル発電機
10:雑固体廃棄物焼却設備
11:サブドレン浄化設備
12:固体廃棄物貯蔵庫(第9棟)
13:乾式キャスク仮保管設備

を見学しました(構内の見学中は一切の写真撮影が認められませんでしたが、後日東京電力より写真の提供を受けました)。思いの外、各原子炉建屋の近くまでバスで接近し、7年前に緊張しながらテレビで見ていたその場所にいるかと思うと、非常に不思議な感覚に襲われました。

1号機

1号機遠景

2号機

3号機

4号機

バスの中からでしたが、原子炉建屋をかなり近くから拝見することが出来ました。今までにニュースなどで報道され、また視察前の講義の際中に見たビデオでも映し出されていた水素爆発後の原子炉建屋の様子を、実際に目の当たりにし、私は言葉を失いました。原子炉建屋の厚い壁が壊され、7年たった今も、瓦礫の処理や燃料の取り出しはまだ先の長い取り組みであることがわかりました。2011年の当該原発事故について、今までTEPCOに対して批判的なイメージを持っていましたが、こうして私達(外部者)に対しても、一生懸命、原発について、事故について、今後の計画について、説明してくださるTEPCOの皆さんと、熱い中も放射線防護服を身にまとい働く多くの関連企業、契約下にある企業の従業員の方々は、この外部から隔離された場所で、必死に働いている様子が短時間の滞在・視察ながらもよくわかりました。1Fでは、増え続ける汚染水の貯蔵その処理方法や瓦礫の処分など、まだまだ課題が多く残っているようです。これらの技術的、そして社会的課題を他人事と思うことはいけないと感じました。福島でおきた問題を福島のみの問題として捉えるのではなく、日本全体の問題、あるいは世界全体の問題として、技術と社会のあり方を含めて真剣に解決策を考えていかなければいけないと感じました。

集合写真

1Fの構内見学の後、再度、別のチャーターバスに乗り、大熊町の帰還困難区域を回りました。バスにはBrownさん、そして地震時に第一原発の周辺に住んでいた2人の地元住民の方が付き添いに来てくださり、ツアーの中で彼らの経験、想いを共有してくださいました。

バスでの移動中、一緒に同行してくれていた住民の一人である鈴木さんの家を通りかかりました。立派な和風建築の家は、代々受け継がれたもので、400年以上もの多くの一族の皆様の思いが詰まった家だそうです。地震が起こる前にきれいに立て直したばかりだったそうで、バスの中からでもその風格さが伝わる、素晴らしい家でした。しかし、今は住むことはできません。鈴木さんは、週に一度は庭をきれいにし、歴史ある家を、その庭を、大切にしているとのことです。

鈴木さん宅遠景

鈴木さんは、土地はなくても、家だけは救えないか、と家だけ動かすという事も考えたそうですが、十分に除染できないため、そのようなことは認めらえていないとのことです。唯一、家具のいくつかは持ち出してよいという許可が出たそうですが、その土地の、その家にあった家具は、そこから取り出されると、また意味も変わってくるでしょう。鈴木さんが何を願おうと、何をしようと、帰還困難区域にあるその家に、もう戻り住むことはできません。放射性廃棄物の一時的保管施設を拡大するため、国にその家や土地を売却し、いずれは取り壊されてしまうのは、もう時間の問題のようです。

この話を聞いて、鈴木さんを立派な家を横目に、何ともやりきれない気持ちなりました。

鈴木さんのようなこの地域の人たちにとって、彼らの家は、住む場所以上の意味をします。それを取り囲むコミュニティーがあり、自然があり、そしてその土地には歴史があり、想いがあります。それら全てが、ある日突然、予告もなく無くなってしまう。それでも、前を向いて、福島の為にできることをやっていこうという、住民の方を前に、何もしてあげられない自分が、悔しくなりました。

バス移動では、津波に襲われた魚の孵化場や、福島原発を見渡せる位置にある多くの高齢者が取り残され命を落とした介護施設、帰還困難地域の大熊商店街を回りました。これらの場所では、実際にバスから降りて、見学することが出来ました。

魚の孵化場跡(廃墟化している)
魚の孵化場の管理室
無人の介護関連施設
介護関連施設の駐車場(自動車が止まったまま)
帰還困難地域の大熊町の商店街
帰還困難地域の大熊町の商店街 近景1
帰還困難地域の大熊町の商店街 近景2

ひとつひとつの場所で、住民の方は、そこで当時、何が起こったのか、丁寧にお話してくださいました。津波の恐ろしさを身にしみて感じ、原発事故当初の人々の恐怖、彼らの喪失感、絶望感に胸を引き詰められるような想いでした。

2011年3月11日に東日本大地震が起きてから、7年がたちます。7年という期間を長いと見るか短いと見るかは、考える文脈によります。しかし、明らかなことは、まるで時間が止まったような光景を今回多くの場所で見たということです。同時に、廃墟のような施設、朽ちていくような建物を見るにつれ、2011年に大地震と事故が如何に発電所周辺に住んでいた人々の暮らしや社会経済活動を奪い去り、それらを元に戻すことがいかに困難なのか、感じずに入られませんでした。様々な人の思いや様々な事情を背負って1Fにおいて懸命に働く人々のことを、そして戻りたくても戻れない家や街を持つ人々のことを、我々は忘れてはいけないと強く思いました。

福島県庁の佐々木様、TEPCOの皆様、Real Fukushimaの皆さん、Brownさん、ご多忙のところ我々の視察のためにご手配、ご高配くださり、誠にありがとうございました。

記録:
庄司(Kanaha Shoji、2018年5月ジョージア工科大学、環境工学部を卒業。JSPSD2018を研究員として補佐)および阿部