1950

Art & Scienceが、根源的な「抽象」追求に向かったのはなぜか?

アメリカを中心にした世界経済、文化の復興期。テレビ、ポピュラーミュージックなど大衆文化・メディア文化の基礎が築かれた。Artは戦争の重圧から解放され自由な表現に向かい、Scienceは技術と融合し、ファックス、家電の普及がアメリカを中心に行われた。

他方、アメリカの資本主義経済とソ連の社会主義経済が鋭く対立した。ソ連が人工衛星スプートニク1号を打ち上げると、「スプートニク・ショック」が起きた。それは宇宙開発の名のもとのソ連とアメリカの軍事対立を意味していたのである。また、世界の南北間でも格差はひろがり、第二次大戦とは違う形で国家対立が起きた。そんななか、ArtとScienceは、個々の自律性を確立しようと模索しつづけたが、成功しただろうか。

「抽象」を追求する。

制作中のポロック

Artは、その表現場を、ヨーロッパからアメリカを移動させた。その結果、アメリカで抽象表現主義が全開する。ポロック、ロスコなどが、イメージや意味を排してキャンバスいっぱいに展開するその線と色。ここには、日常の具体からの遊離がある。さらにボロックを中心に、アクションペインティングがうまれる。身体的なうねりを表現しながら、まるで世界の根源の動きを示すかのような線と色は、Scienceの発見する微視世界と大きく共振しはじめる。たとえば、ワトソンの発見したらせん状のDNAの構造や、物質の特性(電気、磁気、熱、光学など)の微視の運動構造、アミノ酸の合成実験の運動は、根源的であり、運動であり、かつ抽象的であった。「抽象」の極限をScienceは、Artとともに追求したのである。

DNAのらせん状構造

この状態を不確定性理論を構築したハイゼンベルグは「自然科学のプロセスと芸術のプロセスが重なる」(1958年)と表現した。この時期、ArtとScienceは共示的関係にあったといえる。両者が接近しためずらしい時期といえるだろう。

宇宙開発と軍事開発。

他方で、アメリカとソ連の対立があった。Scienceは、ここでも国家に巻き込まれはじめる。宇宙開発が同時に国家の軍事開発に繋がるからである。ソ連の人工衛星のうちあげに対抗するためにアメリカも人工衛星を打ち上げる。「宇宙へ行く」というイメージがデフォルトのように決定されていった。ロケット工学、産業用ロボットの開発などが加速した。その批判と検証は60年代を待つ必要があった。

参考文献(年表を含む)

  • ・野家啓一『科学哲学への招待』ちくま学芸文庫 2015年
  • ・小川慶太『科学史年表』中公新書 2016年
  • ・暮沢剛巳『現代美術を知るクリティカル・ワーズ』フィルアート社 2002年
  • ・W.K.ハイゼンベルグ『現代物理学の思想』みすず書房 1967年