1940

Art & Scienceは破滅や死と直面さざるを得なかったのはなぜか?

第2次大戦勃発、世界全体が破局に向かうひじょうに危険な時期であった。戦時中、世界はドイツ、イタリア、日本の「ファシズム国(全体主義管理国家)」側VSアメリカを中心とする「連合国」側との対立の中にあった。結果はファシズム国の全面降伏。日本の広島、長崎への原爆投下で終わる。兵器の中には、ロケット、細菌、原爆など現在、きびしく使用が批判されているものがあった。

またドイツのユダヤ人迫害のためのホロコースト(大量殺戮)などは、民族浄化、移民迫害、障がい者差別など現在の問題につらなる。経済恐慌に端を発しながら、軍拡路線をつきすすみ、人間の消滅にまでいきつくあり方は、人類が、国際社会が試された時期でもある。また45年以降、世界は再生の道をさぐる。

死への破壊的造形

ArtとScienceは、激しく国家間の戦争に巻き込まれた。両者とも、死への破壊的造形をつくる動きをみせた。

フォートリエの「人質」展より

まずArtの表現は、暗い時代の阿鼻叫喚の表現となった。ファシズム体制への激しい抵抗と絶望としての芸術表現か。前衛集団コブラ、あるいは画家フォートリエなどは、ヒューマニスティックな人体の形がくずし人間を物体のように表現し、当時の緊迫した状況を表現している。また、画家デュビュッフェなどに見出された精神障がい者などの絵画は、「アール・ブリュット(生の芸術)」として提唱された(1945年)。これは、うまいへたの技術を超え「アウトサイダーアート」とも呼ばれ、後に大きな感動をもたらした。形をくずしてでも存在する人間や世界の姿が感動的に描かれたのだ。

マンハッタン計画のポスター

Scienceでは、武器開発が進行し、戦争や破壊に突き進んでいった。この時期、サイエンスは、国家プロジェクトの「ビッグサイエンス」を志向。この「ビッグさ」は、「国家」「世界」といった、等身大の人間の経験をはるかに超えたスケールとなった。それが制御不能になったとき(たとえば戦争)、人間が抹殺される大きな問題をも引き起こす。とりわけ爆発的なエネルギーが放出される核融合にまつわる研究とその応用は危険な要素をはらんでいた。

ファシズム陣営では、ロケット開発、細菌兵器開発が行われ「科学の体制化」がすすんだ。一方で反ファシズムの連合国側も、原子炉の開発、オッペンハイマー、アイシュシュタインが参加して「マンハッタン計画」のもと、反ファシズムのための原爆開発をすすめた。結果、原爆が日本に投下される。またコンピュータの開発がすすみ、砲弾のスピードの計算や水爆のシミュレーションなど軍事利用にも使われた。Scienceもまた死の造形へ向かったのである。

45年以降の再生への道

45年以降、ArtとScienceはともにいかに体制の従属から自立し、個々が自立的に探求できる環境を構築できるかが問題となった。脱国家イデオロジー化(イデオロギーからの距離化)志向である。とりわけ連合国側のアート陣では、表現を直接的に表出しながらも、意味やイメージを排して純粋な抽象性を表現していく、アンフォルメル(非定型)な道を探した。これは、体制に巻き込まれないアートの自立化の道とも考えられ、ポロック、ロスコなどの「抽象表現主義」の萌芽を生み出した。45年以降、ArtもScienceも、いかに体制の従属から自立し、とりわけScienceはシビリアンコントロール(市民による統御)が重要になってきた。

参考文献(年表を含む)

  • ・野家啓一『科学哲学への招待』ちくま学芸文庫 2015年
  • ・小川慶太『科学史年表』中公新書 2016年
  • ・暮沢剛巳『現代美術を知るクリティカル・ワーズ』フィルアート社 2002年